創業物語・そしてその後

第7話 業界団体の役職

TKCについて

 TKCについては、Ⅴ 業界の先達に、3.不撓不屈の人として飯塚毅先生のことを書いたが、入会時30才そこそこの私の年齢が珍しかったのか、当時のTKC東北会の役員の方々から可愛がれた。それは良いのだが、色々役を付けられるのがイヤだった。何せ、私は食べていけるのがやっとの事務所経営なのに、役員の先生方は既に経営盤石な事務所ばかりである。私はそんなことにかまけているよりも先ず事務所経営をしっかりとしていくことそして関与している企業のために尽力するのが一番と考えていた。しかしTKCに入会した当時は、同業者でこんなに勉強熱心な税理士が居たのだなと改めて感心したほど黎明期の会員は勉強した(現在の役員先生が不勉強と言うことでは決してありませんよ)。また会員勧誘も熱心で、自分の事務所業務そっちのけで東北各地を駆け巡っていた。それが当時隆盛を誇っていた某宗教団体と似ていると言われて言われなき誹謗を受けたこともある。兎に角TKCの会合や研修会への出席が楽しくて仕方がなかった。その上に税務・会計の知識、事務所経営のノウハウも教えてくれる「正に血縁的集団だな」と感じた。また行動原理も「自利利他」でお客様企業の成長のために徹底的に尽くすがそれは決して甘えさせることではない。自分は、はじめて税理士になったことを心から喜ぶことができた。

 そんな私も10年も居ればそろそろ走り使い程度の役はしないといけない時期が来た。そんなおり、これもTKCが勧める生命保険会社の表彰旅行でフランスに行くことになった。それにはその後兄弟的付き合いをすることとなる平塚・植松両先生が渋る私を無理矢理参加させた。海外旅行なんかとても今の事務所状態では無理だと考えていたのと準備や行くのが億劫だったのである。話が脇道にそれるが、昔聞いた話に「海外旅行と離婚はクセになる」という格言があるそうで、するまでは億劫だがしてみるとこんなに簡単で快適なのか?ということのようだ。しかし今や若い人達にとってはこんな格言も死語になっていることだろう。私も海外に行ってみて驚いた。もっと若いときに借金をしてでも海外旅行はしておくべきだったと後悔した。一杯になってしまった頭の中が激しく揺さぶられて空きができそこに新しい知識が埋まっていく感じがした。この当時の私にとっては「大決断」をさせた植松正美先生(その後平塚先生の後を受けてTKC東北会会長になった)は、私よりも数個年下ではあるが私が心から尊敬している同業者の一人である。その後も植松先生は何かにつけて私を引き立ててくれた恩は、心の中で深く感謝しているが、私の方が一応先輩なので本人を目の前にしては言わずにここだけの話にしておこう。その植松先生にパリのホテルで「深田さんTKC宮城県支部の支部長になってよ」とあっさり言われた。

 子供の頃から人の後ろについて行くことだけの者が人の上に立って引っ張っていくことなどできないと本気で考えていたのですぐさま断りたかった。しかし自分も10年以上の会員なのでそろそろ何かはしないといけないかと考えていたことと、初めての海外旅行で心が高揚していたのか、曖昧な返事をしてしまったが、植松先生はそれを肯定と受取ったようだ。宮城県支部長を契機にその後TKC東北会のMAS委員長や副会長等の役職を経て、これも植松先生の心遣いで、TKC東北会の会長を経験していないのに、顧問と言う大変名誉な役職を頂くことになった。


TKC全国政経研究会

 TKC創設者の飯塚毅先生は、TKC会員は必ず政治活動をすることと常におっしゃっていた。それまで税理士は思想信条が色々な関与先もあり、政治には中立と言うのが常識であったので大変な違和感を持った。でも飯塚先生は、我々の業務は法律業務であり、その法律は議員が国会で作るものである。その議員は選挙で選ばれる。優秀な議員を選ぶ為にTKC会員は候補者の後援会活動特に選挙の際には熱心でなければならない。至極明快であり、そこには何らの衒いもない。それでも長年の習慣はそう簡単に変わるものではなくまあ適当にしておけば良いかと言うような程度にしていた。それは全国殆どのTKC会員も同様だったのではないかと思う。東北にもTKC政経研究会が結成されたがそれほど活溌ではなかったと記憶する。ところがあるとき、全国組織の事務局長が代わり、今度の局長は熱心で全国を回り、TKC東北会の理事会にも出席し懇親会にまで参加した。その事務局長が後に(株)TKCの社長にもなった高田順三氏である。その懇親会で私は高田局長と妙にウマが合ってしまった。当時私は税理士会の政治連盟の役をしていたこともあったのかも知れない。深田は税理士にしては珍しく政治に関心を持っているなと勘違いされたのだろうと今でも思っている。

 ほどなく高田局長からTKC全国政経研の政策審議委員になってくれ、東北からはあなた一人だけとのこと。まもなく、とりあえず4月24日、TKCコンピュータ議連を開催するので東京平河町の自民党本部に朝8時に来て欲しいと言われ、訳が分からずとりあえず出席した。何とそこは国会議員との朝食会で名だたる議員先生方が目の前で丼飯に生卵を掛けて塩鮭、海苔と味噌汁でかっこんでいる様に度肝を抜かれた。間もなく飯塚会長が現れる。とその先生方が粛然と姿勢を正すのにも驚いた。その日は、今国会で立法予定の飯塚会長念願のコンピュータ会計法(現行電子帳簿保存法)について行政側の説明であった。その頃、飯塚会長の身体は既に満身創痍の状況でその日はやっとのことで茅ヶ崎から来られたとのことである。声を絞り出すようにしてとうとうこの日が来たことを喜んでいることを語られた。会場内水を打ったような静けさで、あのうるさい(失礼!)国会議員先生方も大人しく座っている光景は今でも思い出す。平成8年の事であった。これで感銘を受けた私はその後全国政経研で活動することとなった。

 各地の政経研が応援した候補者が続々当選することとなり、有力な政治団体に育った。ところで当時のTKC政経研の政策審議委員会のメンバーが凄かった。私はその時期少しは度胸がついていたが果たして自分がこの人達と対等にやっていけるのか不安を感じたのも事実だ。兎に角勉強していること半端でない。そしてしゃべる。何時間でも疲れないで会議をする。何せ土曜日の午後TKC本社1時集合で一応予定は5時までなのだが、終わらない。やむなく宿泊、ホテルでの夕食で当然お酒を飲みながら議論、一旦部屋に戻ってから会議室に集合し午後9時から12時まで会議それでも終わらず次の日曜日はまた朝9時から本社でお昼まで会議、昼食でやっと解散と言う強行軍。これでは大変だなというのが第一印象であった。ところが間もなく私はそこの委員長に担がれてしまうのだから分からない。委員会なのに委員長が居ないのはおかしいとTKC会員のあるうるさ方の先生から言われ、それなら一番年長で声が大きいと言うだけで私が指名された。ただ、それからは私の仕切りで会議はほぼ時間通りに終わらせることができるようになったのは少し自慢である。

 この全国政経研政策審議委員会のその後の活躍も素晴らしく、平成9年の地方自治法の改正で税理士が地方自治体の外部監査人になること、13年の税理士法改正、18年の会社法改正で税理士が会計参与に就任できることで会計の専門家として法的にも認められたこと等税理士会の施策に黒子になって働いた功績は大なるものがあると自負している。政策審議委員の中に、事務所経営しながら東大大学院博士課程を卒業した坂本孝司先生(現TKC全国会会長)はじめ優秀なメンバーに恵まれ、我々も働いたのも事実だが、政治家・官僚の懐にすんなり入っていける知識と力量を備えた(激務のTKCに勤務しながら一橋大大学院を首席(ご本人からの要請により「ご苦労されたにもかかわらず全優で」に訂正いたします)で卒業し税理士資格を取得した。その一橋大で博士号まで取得された。)高田事務局長の働きによることが大きかった。しかし、これで終わりではなくまだまだ業界のためには頑張らないといけないと思った。その高田さんも青山学院大大学院の講師を務められ、その後関東のある大学の教授になられたが、これからと言う時に惜しくも体調を壊し亡くなられてしまった。


税理士会の役員も

 私が税理士として登録しているのは東北税理士会仙台中支部(55年改正までは宮城県支部仙台中部会)である。支部の例会には必ず出席し、真面目に一番前に陣取り、疑問に思ったことは手を挙げて質問した。当時業界の常識と言うことにも私には通じない。税理士会や当局にとって都合悪いことでも納得するまで食らいついていく。それで当時の執行部が口封じの意味もあったのか、私は若い内から支部の役員を指名された。また、前述の柏葉先生からの指名で東北税理士会指導部の委員にもなった。未だ30才そこそこの時である。年に2回位国税局と協議会があるのだが税理士会側の年齢層と当局側の年齢層の違いに驚いた。税務署と異なってぐっと若い人達でなるほどこの人達が国税キャリアと言われている人種かと得心した。特に会議を仕切っているのは私よりも若い総務課長である。それが自分の父親位の税理士会幹部に諭すように話しているのが今でも目に浮かぶ。その後、法対策委員会、制度部の委員そして理事にまでなったが、これも事務所業務に専念したい気持ちが強く柏葉先生が会長を退任するのをしおにしばらくの間税理士会を離れることになる。ただ東北税理士政治連盟の幹事は会議をサボっていたが役を降ろされずに次の年度には副幹事長に指名されていたのには驚いた。さすがに副幹事長ならサボれない。それにあまり負担にならないので続けていた。年に1回、全国の定期大会で東京に行くのが楽しみとなった。

 そこで忘れられないことがある。昭和50年代の中頃のこと仙台から数人が一緒に繰り出したが大会は午後1時30分頃から始まる、いつもは上野駅で昼食を摂ってから行くのだが、何故かその日は会場のホテルで摂ろうということになった。私は途中の蕎麦やで、と思ったが皆言うことを聞かない。会場のホテルは当時高級で有名なキャピトル東急である。12時過ぎに着いた地下のレストランは満員でしばし待たされた席に着いたときには1時近くである。一番早く出る料理をと言ったら「それならローストビーフ定食です」、それを食べ始めたのが1時10分を回ってしまった。デザートは出たものの食べる時間がない。恨めしげに勘定をと言うと。何と「お一人様1万円です」と言われ皆仰天した(蕎麦なら当時東京の一流店でも千円もしないのに)。そこのティールームは当時でもコーヒー一杯千円していた。

 そんな楽しいことをしている内に副幹事長で一番古株になってしまった。次の幹事長候補が居ない。それならお前がやれと大先輩山形の安孫子先生からの大命が下った。それを6年もすることとなり、その後東北税政連の総務会長、副会長そして会長までと、全く東北税政連の主(ヌシ)見たくなってしまった。深田は余程政治活動が好きなんだなと思われているかも知れないがこんな事情で単に抜けられなかったのが実情です。幹事長をしている間に当時の東北税理士会会長今野和郎先生から「深田さん本会(東北税理士会)も手伝ってよ」と、定期大会の帰りに東京駅で言われて、東北税理士会の定期総会が終わると制度部の副部長、次の総会では何と常務理事(本意ではなかったが立候補して)そして制度部長となった。この頃から今までの無責任は止めて、その役職に誠心誠意務めるようになっていた。制度部長時代には特に商法改正(会社法創設)問題に尽力し税理士のために会計参与制度創設に奔走したり、東北税理士会とドイツのハノーファーに本部があるニーダーザクセン税理士会との交流(と言ってもこちらからの一方交通だが)を当時の立命館大学三木義一教授のお世話で始めた。その際の、ミュンスターの財政裁判所(税務争訟専門裁判所)やニーダーザクセン州税局、ハノーファー北税務署そして地元税理士事務所の訪問は忘れられない思い出である。その後東北税理士会の副会長そして会長までなるとは自分も含めて誰も予想はしなかったのではないか。


法人会活動

 今でも覚えているが、未だ開業間もない頃、税理士会仙台中支部(未だ仙台中部会)と税務署との協議会の場で、署の幹部から税理士会員に対して関与している法人には是非法人会に入るようお願いしたいと要望があった。すかさず手を挙げた私は、何故、公務員たる税務署員が民間団体への加入勧奨をするのか?と質問した。一瞬会場が凍り付くのが感じられ、支部長が、「深田さんそれは後で説明するから」ととりなした。翌日、早速署の幹部が当事務所に来て、子細を話した。「分かりました。それでは私も協力しましょう。」それが法人会活動に入るきっかけでした。仙台中法人会に青年部を作るからとのことで発起人の一人にもなった。税の専門家なので同法人会の税制委員会の副委員長を長年務めた。企業経営者の団体なので委員長はなるべく会社の社長さん、私は補佐役として何代かの委員長を支えた。

 しかしあるとき、会長と2、3人の幹部が私に是非全国法人会総連合の税制委員になってくれと言う。「東京での会議は年に2回程度だから忙しい深田さんでも負担にならないでしょう。どうも我々素人が主張しても無視される、ここは専門家である深田さんに頑張って欲しい。今、全国法人会では消費税率アップとインボイス制度(殆どの国で採用している取引の度に発行する税額票、これがないと仕入税額控除できない。我が国では世界でも唯一、帳簿記入と領収書等があれば良い)導入を主張している。そうなったら小売業者は大変だよといくら言っても法人会顧問の学者がオピニオンリーダーで彼の意見に他の委員は皆賛同して駄目だ。何とか頼む。」とのことであった。それなら分かりました。と言ってしまったが、実は大変で、全国の委員になるには宮城県連の委員長にならないと駄目でそのためには先ず中法人会の委員長にならないと駄目である。確かに全国の会議は2ないし3回だが、県、仙台中の会議を合わせると十数回になってしまうことに気がついた時には後のまつりであった。

 そんな訳で法人会全国総連合の税制委員会に宮城県代表として出席した。なるほど税制改正スローガンには消費税率アップ、インボイス制度導入を謳っていて、それに賛同する意見が各委員から出ている。これは重症だなと思った私はおもむろに手を挙げた。「皆さん、私は税の実務家として申し上げるが、消費税をアップする前にすべきことがある。それは不公平を少しでも減らすことである。先ず簡易課税制度適用上限が売上高2億円は高すぎる。これで益税として潤っている層はかなりあり、5千万円程度に下げる必要がある。免税業者売上高3千万円も高すぎる。国際的にはせいぜい1千万円である。またインボイスが合理的と言うが私は海外の実情を見てインボイス整理のためには皆さんの会社なら女子事務員さんを一人増員しないといけないですよ。それからその確認のために税理士への支払は今の倍になります。私は税理士だからそうなったら増収になるので反対はしませんが!」と言ったらみんな大笑い。これ以後法人会は消費税率アップもインボイス制度導入も言わなくなった。私の功績と言うより、多くの委員は、実際のところはあまり知らないで、識者が言うのでそうしないといけないのかなと漠然と考えていたようだ。オピニオンリーダーを間違えるととんでもないことになる。これはその後の小泉政権の際に国民はイヤと言うほど実感させられることとなる。しかし、後の消費税法改正がそこで私が言ったとおりになったのには驚いた。

 その後仙台中法人会の税制委員長は後任を指名して退任と言ったら分かりましたと即座の返事、アレッ随分物分かりが良いな、と思ったら税制担当副会長を新設するので是非にと、これまただまされてしまった。また新たな課題の公益法人制度改革の担当を命じられて、公益社団化に若干関わった。仙台中法人会役員の定年は70歳なのでこれで終わりと思ったら今度は委員には定年がないのでと言われ、税制委員会の委員でかつ顧問にされて今に至っている。


ロータリークラブ

 私の高校時代の同級生で私と全く正反対の性格なのだが何かにつけて関わりのある、Hがある日電話を寄越し、来週の金曜日にロータリーの例会があるので出てくれとのこと。「出たくないけど、出ないといけないのか?」と聞くと、俺の顔を立てて出てくれとのこと。「しょうがないなでは一度だけ出ようか」と、その例会なるものに出席した。そうしたところ驚いた。私はその仙台西ロータリークラブの入会予定者になっていると紹介された。えっ!聞いてないよ。文句を言おうと思ったがHはきていない。会員のどなたかに聞いたら「彼か!あはは」と要領を得ない。まあ一度だけなら良いかと、翌週は出席しなかった。そうするとHから電話が来てどうして行かないんだと言う。「ちょっと待て!俺は入会するなんて言ってないよ。」と言うとHは「ロータリークラブとはな、入りたくても入れないクラブなんだ、そこにお前は認められたんだ、名誉なことではないか?」「そんならそうと先に言えよ?」と私。「それが言えないんだ、もしアウトになったら失礼だろ、だから本人にはOKになるまで黙っているものだ。」とH。あとで分かったことだが私の略歴等は私の居ないときに事務所に電話して職員から聞いて記入したとのこと。今なら個人情報保護でそんなことはないのだが。そんな訳で入会せざるを得なかったが、H曰く、「お前は引っ込み思案なのでこういうところに引っ張り出して度胸をつけて欲しいと思ってな!」と。今では面の皮が何枚もあるのではと誤解されているようだが、事実私は毎週の例会出席がイヤでイヤでたまらなかった。1年たったら退会しようと密かに心に誓ったのも事実である。

 ところがそのうち、「深田さん、私の知っている会社の社長が税務調査を受けて困っているので話を聞いてもらえないか?」とか、私よりも後で入った会員が「先輩!是非ウチの会社を見て下さい」とか。なんやかんやで数件の関与先ができてしまいこれも辞めるタイミングを失って現在に至り三十数年を経過してしまった。会長は2回もさせられるし、ガバナー補佐にまでさせられた。これ以上の役は絶対しないと固く心に誓っている。ただ、確かにHの言うとおりだったと思って今では大いに感謝している。これもしゃくだから本人の前では言わなかったが、コロナ禍の令和2年に亡くなってしまった。仙台西ロータリークラブは私を成長させてくれた素晴らしい団体だと思っている。今では絶対に退会するつもりはない。今から100年以上前、アメリカは不況の時代で当時のシカゴは荒れに荒れていた。商売で相手をだますようなことは日常茶飯事だったらしい。そんな社会風潮をなんとかしようと正しい商道徳を守った取引をする仲間を募ってできたのがロータリーである。だから本来は団体で社会奉仕をするのでなく、自分の仕事を忠実に行い、取引の相手方の満足を得られるように「職業奉仕」する人達の集まりから始まったのである。


創業物語・そしてその後