創業物語・そしてその後

第1話 税理士開業まで

 昭和46年11月、晴れて税理士登録を果たした私は、若干28才。当時、地元では税理士の最年少を誇っていた。前途は洋々と私のために開かれていると思った。しかしそれが全くの誤解であることを早々に思い知らされることとなった。そのことについては後で除々に述べたい。

1.税理士を目指して

 昭和41年、地元の東北学院大学を卒業した私は、オリンピック景気の反動による不況で就職難の中、運良く当時一流と言われた都市銀行である三和銀行に就職した。世間からは羨ましがられる職場であったが私にはどうもしっくりこなかった。出身大学による差も大きく(と言っても自分だけの劣等感だったのかも知れない。何せ同期130人の内、東大卒・京大卒だけで約半数にもなった)。そのため入社早々から、ここにいては浮かばれないのではないかと言う強迫観念にとりつかれ、もっと自分の能力を活かせる仕事があるのではと考え始めたのは無理ないことだろう。

 しかし目標を税理士に定めるまでは大いに迷った。家が小さな洋菓子店を営んでいたこともあり、何かの商売をしたかったものの、技術も資本もなく、それとは異なる道を選ぶしかなかった。学生時代それを目指す同級生が居たので税理士の名称を知ったが、話を聞くと試験が難しそうでなかなか合格できそうもないし、仕事内容も面白くなさそうだし、自分とは全く無縁の職業と思っていた。しかし銀行を脱出したい気持ちは益々強く、それには資格取得が一番と思い決断した。大学の恩師「故安藤春夫先生」は、気は強いが気が小さく、会社内の出世競争にはとても耐えられないだろうと、私の性格を見抜いていらしたのか、何らかの資格を取っての独立を卒業後もしきりに勧められていた。そのため銀行に入社早々から税理士試験の勉強を始めた。5年で合格して退職をと目標を定めたが、そう簡単な試験ではなかった。

 銀行は2年半で見切りをつけた。退職願いを出すと本社人事部に呼ばれた。「多くの大卒希望者から選抜され、こんなに世間から評価されている職を何故投げ出すのか?」とそれこそ東大出のエリート人事部長にはどうしても信じられないようであった。「銀行ほど社会が良く分かる職場はないのに」とも言った。それに対して「それが銀行の思い上がりと言うモノですよ、子供の頃から家業を手伝っていた私の方が貴方よりもよほど世間を知っていますよ」と返したのは若い私のせめてもの突っ張りだったのだろう。この一言で私の退職は決定された。しかしスピンアウト等というかっこよい気分ではなく、恐る恐るの退職と受験勉強突入であった。零細企業で苦労していた両親からはそんなに良い職場を何故捨てるのかと怒られ、世間からは銀行と言う職種柄、何か問題を起こしてクビになったのではと思われたことであろう。

 2年半勤務した銀行はその後合併を繰り返し、今は吸収され財閥系の某銀行となってしまった。銀行員時代身につけた手形や小切手の知識は後ほど税理士を開業してから大いに役立つこととなった。私の社会人の原点となった旧三和銀行は私の大切な恩人と言えよう。

 東京勤務であったため、退職後もそのままとどまり、昭和44年の正月から税理士試験の受験勉強に入った。税理士を選んだのは弁護士や公認会計士の資格と異なり、科目合格が累積できるからである。既に銀行員時代に1科目取得していた私は残り4科目を取得すれば良い。毎年試験は8月にあり、そこに照準を定めた。

 当時千葉に住んでいた恩師を訪ねて私の決行を報告すると、かねてから私に退職を勧めていたので「そうか、よし頑張れよ!」と言う声を期待していたのに、返ってきたのは「本当に大丈夫なのか?」と聞かれたのには愕然とした。でもその後ご自分が勧められたことで私の消息には大変気に掛けられていたようで、先生が亡くなられてご焼香に上がった際、奥様からお聞きした。大学時代にはゼミナールで勉強ばかりでなく礼儀作法まで厳しく鍛えて頂いた安藤春夫先生は私に方向性を与えて頂いた恩師の一人である。


2.受験時代

 試験勉強期間の苦しさは言うまでもないが、銀行員時代の僅かの蓄えと失業保険の受給で経済的には何とか間に合った。失業保険は就職の意思がないと支給されないので、経理担当者を探している企業を必ず紹介される。しかし面接に行くと幸と言おうか例外なく不採用となったのは何故なのだろうか。数回求人の面接に行き、失業保険を4回給付受けた後、職安で「どうせ就職できないので国に帰りますから以後の給付は結構です」と言うと、当時、母の年齢ぐらいの女性担当官は不憫に思ってか「もう紹介しないし面接にも行かなくて良いから、残り全て受給しなさい」と言ってくれたのは大変ありがたかったが、その頃は既に受験で仙台に戻る時期でもあったので、気持ちのみ頂いた。

 親には一銭も迷惑を掛けないとタンカを切っていたから生活費はとことん切りつめたがこれも知らない都会だからこそできたと言える。中央線中野駅から歩いて10分、高円寺の閑静な住宅地にある夕食のみ出る3畳間の下宿(当然風呂無しトイレ共同)に学生以外は駄目と言うのを学生のようなものなのでと無理矢理頼み込んだ。しかし大事な夕食も夜遅く受験セミナーから帰ると共同の流しの脇にとって置いてはあるものの、既にゴキブリ数匹の餌食になっていることが多かった。常夜灯の薄暗い中、お盆に掛けてある古新聞を取ると、「やっと食事にありついたのに」と恨めしそうに光るゴキブリの目は忘れられない。また健康を損なわないよう、栄養には気を付け、卵と牛乳それに何らかの野菜か果物は毎日切らさなかった。そのためか牛乳と卵には今でもあまり食欲が湧かない。

 それでも勉強するには大変環境の良い場所であった。家の前は車1台がやっと通れる坂道の路地で、道を挟んで向かい側はカソリックの女子修道院、時々、若い修道女達が卓球をしながら他愛のないおしゃべりをしているのが聞こえる程度。

 一番の悩みは精神的な安定の維持であったが、これも約7ヶ月の短期間だからできたのであろう。しかし勉強の進行度合いが悪いときなどは自分が情けなく、夜更けの町をあてもなく彷徨したこともある。そんなとき民家の窓から漏れる明かりは何とも暖かそうで羨ましく、将来不安もつのってきて涙がとめどもなく溢れてきた。隣室の学生が良くかけていた由紀さおり「夜明けのスキャット」のもの悲しいメロディーが当時の思い出の曲である。人類初めての月面着陸もテレビがないためラジオ放送のみの記憶でしかない。娯楽は月1回の失業保険給付日にカツライス程度の少し贅沢したランチの後、中野駅前の名画座で古い映画を見るだけ。その中ではダステンホフマン主演の「卒業」とサイモン&ガーファンクルの曲が印象深い。当時、損害保険会社の新宿支店に勤務する学生時代の友人が心配してしきりに給料日頃に飲みに来いと誘うのだが、行けば必ず後で自己嫌悪になるため当初の1,2ヶ月だけ好意に甘えた。でも人生であれほど勉強した期間はなかったと言える。これほど勉強して合格しなければ誰も合格しないと自信を持って言えた。勉強仲間に恵まれたこともある。受験セミナーで、講師に質問する内容が優れている受講生を見つけては声を掛け、仲間を増やした。毎週1回メンバーの一人の家に集まり3時間ぴったりの間、試験問題を解き、採点しあい、評価をするだけという付き合いである。これも当初は場所探しに苦労し、昼間低廉で貸してくれる場所は当時、東京都内と言えどもそうそうなく誰かのアイデアで、連れ込み旅館なら日曜の午前中空いているのではと、頼み込み利用したこともある。その後自宅を開放してくれるメンバーが入ったので助かった。お互い名前しか言わず聞かずに、最後の日になってやっとそれぞれの素性を知った。皆私よりも年上であったがその後このメンバーは全員税理士試験に合格したのは言うまでもない。

 この勉強中に不思議な現象を体験した。私は「簿記論」に合格していたので残り4科目の勉強をしないといけない。一度には無理なので先ずは「財務諸表論」、「法人税法」そして地方税法の中の「事業税」と科目毎に順次勉強を開始し、最後はボリュームの少ない「固定資産税」の勉強を4月から開始した。しかし1ヶ月経つもこの科目に興味が持てず、当然勉強もはかどらない。5月最初の勉強会の時、この悩みを言うと仲間は「相続税」がいいよ、でもこの時期からの開始では間に合わない」とのことであった。私は帰り道書店に立ち寄り、お金を節約して一番安くて薄っぺらな「相続税入門」を購入した。昼飯を食べながら読み始め、気がついたら辺りは薄暗くなってきたので電灯を付けまた読み続けた。夕食を摂った記憶は全くないが、夕刻読み終えて巻末にある例題を解いたらすらすらと解けるではないか。これは意外と相続税は私に合っているなと安心した。一週間後、仲間に相続税に切り替えたことを報告すると異口同音に「大丈夫?」、しかし試験問題を解き、私の答案を採点した中の一人が「深田さんどうしたの?本当はかなり前から相続税の勉強をしていたんでしょう!」と叫ぶ。私は1週間の勉強でもう既に合格ラインに達していたのである。人間必死になって頑張るととんでもない力を発揮することもあるものだと自分ながら感心した。

 8月に仙台に引き揚げ受験、12月の発表にはめでたく残り4科目全て合格となった。何とその時全科目合格者は全国で2人、私のような4科目合格者は8人のみであった。


3.修業時代

 銀行を退職して、受験にもし失敗した際に困るのは生活である。今でこそフリーターと言う選択もあるが昭和44年当時は職に恵まれている時代でないのでそれが一番の悩みであった。かつて敗戦直後の混乱期とはいえ、両親が就職活動に苦労しているのを見てきたからのトラウマとも言える。

 そこで今考えれば厚かましいことであったが、私は未だ銀行を退職前なのに次の職を一年前から予約していた。出身大学の教授が主宰している公認会計士事務所に一年後に就職させて欲しいと無理矢理頼み込んだのである。会計事務所ならば税理士資格登録の際に必要な2年間の実務経験として有利でもある。学生時代その教授の講義は受けたことはなく単にその名前を知っていたに過ぎないのにである。よほど私が必死の形相をしていたのか、その先生は呆れながらも1年後の就職を許可してくれた。

 翌年8月の受験後、その事務所に早速就職すべく尋ねた。まさかその先生は本当に1年後に私が現れるとは思っていなかったのではないか。それでも幸運にも先輩職員が一人退職したばかりでもあり、欠員補充ですんなり就職が決まって、心から安堵したのを昨日のように覚えている。そこで2年間お世話になることとなったが、私の職業会計人の原点でもあり、その教授「故門脇達朗先生」には今も感謝の念を忘れない。その年の12月に税理士試験合格の報を受け取った。

 会計事務所に入り、自分の勉強が活かせるかと思ったものの、私のような新入職員の仕事は毎日来る日も来る日も、インキを浸けたペンで顧問先企業の伝票を総勘定元帳に転記する作業で文字の下手な私には大変苦痛であった。2年の間殆どがその単純作業である。でもその間、同僚から教わった商業登記、独学でマスターした資金会計は後に開業してから役立つこととなる。

 税務については、退職直前にやっと小規模な会社の決算と申告を1社仕上げただけで、これまた厚かましくもいっぱしの税理士になれると誤解して独立することとなる。

 その会計事務所勤務時代に、知り合った女性が現在の妻である。


4.やっと開業

 税理士試験に合格しても、実務経験が2年間ないと登録はできない。その2年間の長かったこと。その間、さらに欲を出して公認会計士2次試験に挑戦しようと、部屋を借りて仕事の後と休日を勉強時間に充てた。仙台市内の国見の高台にある一軒家で今度は賄い無し、当然トイレ共同、風呂があったがこれも共同、向かいの部屋と階下にそれぞれ住む2組の若い姉妹が風呂当番をしてくれた。と言うと天国のようなところに住んでいたかのようであるが、現実は全く異なっていたのでそれは省略する。勉強は進んでいたが、私の合格を聞きつけた友人、知人が盛んに独立を勧める。顧問する企業を紹介するので早く開業しろと言う。私はもう少し勉強したい気もあったが、件の女性の存在もあり、今後の現実的な生活も大事なことと思うようになった。全く当てがなかったにもかかわらず(と言うほどではないが)何とかなるだろうとの考えだけで、と言うより彼女を失いたくないばっかりにと言った方が事実かも知れない。独立開業と結婚を決意した。仲人は高校受験に失敗した際大変お世話になった中学校の恩師に依頼し、結婚式には上記2人の教授にご出席と祝辞を頂いた。時に26才、両親の住む近くの仙台市若林区南小泉4丁目に二階続きのアパートを借り、一階を事務室、二階を居住として10月に結婚、11月に開業とめまぐるしい日程であった。会計事務所は丁度2年間のみ勤務して門脇立朗先生からは自分の都合ばかり言ってと思われたのだろうが8月末には退職していた。開業までの間は家業の菓子店の手伝いもしながら開業準備をした。それまでは洋菓子卸のみを行っていたが、自家製の洋菓子を売る店が増え、将来のためには小売りに転換が必要と、渋る両親を何とか説得して開店させたものである。それには税理士だけで生活できる自信がなく、もしものことを考えて自分の生活防衛の意味もかなりあったのだろうと今になって思う。その菓子店は私の実姉が定年退職した連れ合いとで細々ながら継続してくれたので感謝している。しかし、義兄が体調を崩したのを機にその菓子店も廃業してしまったが。


創業物語・そしてその後