第3話 多くの事の体験時代
1.節税対策で頑張る
昭和48年、それまで46年のドルショックによる円高不況から一転、景気はインフレが亢進することとなる。いわゆる第一次オイルショックである。先ず石油製品の値段が高騰し、それにつられてあらゆる製品が値上がりした。スーパーの店頭からトイレットペーパーが消えた時期である。何せ商品を販売して次の商品を仕入れるときには先の売値に近い価格でしか購入できなくなると言うすさまじさである。それで商売は大変かと言うとさにあらずで、兎に角値段はどうでも品物を確保さえすれば次々と売れてしまい、これまで考えられなかった利益も計上されるようになった。今まで赤字経営で「何とか税金を払えるような会社になりたい」と口癖にしていた社長が喜ぶかと思いきや、今度は「何とか税金を少なくして貰いたい」と言うから現金なものである。前述のように、私は関与企業には月次決算を提供していたので、毎月利益が累積されているのがよく分かる。これでは決算時には税金が多額になるので何とかして欲しいと言うのである。但し、私の性格を分かっていたせいか不思議と脱税をして欲しいと言う経営者は一人もいなかったのは当時の関与先企業に感謝したい。合法的に何とかせよというのである。
合法的な節税は2つしかない。一つは経費を多く使ってしまうことである。二つは利益を翌期以降に繰り延べることで、売上の繰延か経費の前倒しである。これには税法上の規定による措置も含む。私は、先ず新しい事業年度が始まる際にはかなり多めに役員報酬を決めておいた。利益が出てから期中増額では税務上アウトだからである。それでもこの時期は予想を超えた利益が出てしまう。当然、設備投資の前倒し、社長の専用車のグレードアップ、従業員の豪華慰安旅行等は誰でも考える。
私は、節税を兼ねて従業員に株を持たせることを提案した。つまり期末近くに従業員に決算賞与を出し、それを資本の増額に充てるのである。従業員は源泉税の負担があるので税引き後の金額を払い込むことになる。こうして会社にとっては節税になるがキャッシュは外に出て行かず、従業員にも自分の会社との意識を持たせてモラール向上を図るという一石二鳥のものである。当然株主従業員にも毎期配当を支払うこととなり、経営者も従業員も双方喜ぶと言う構図である。意外とこれが会社経営者に受けた。関与企業を訪問して仕事をしていると、そこにたまたま取引銀行の行員が来て、客から頼まれているらしく「先生何か良い節税法はありませんか?」と言うのでその方法を教えると「それは素晴らしい」と客となる企業を紹介して頂いたケースが数件もあった。
2.倒産企業続出
オイルショックによる狂乱物価はまもなく納まるが、今度は一転して不況となる。品物がないときは兎に角買っておかないと不安なので、品物があれば仕入れる。そのため見せかけの需要が本来の必要量以上にどんどん膨らむ、従って生産量も多くなるが消費には限度があるので直ぐに在庫過剰そして生産過剰となってしまったのである。そうすると今度は、我が世の春を謳歌していた企業経営は途端に売上の大幅な減少となり、赤字続出の憂き目を見ることとなった。
さあ、そうすると今までニコニコ顔で貸してくれた銀行が、必要資金も貸してくれない。その上、返済はしっかりと取る。途端に資金繰りがつまってくる。あげくの果ては融通手形に手を出すところも出てきた。経営者は「深田さん何とか売上を伸ばす方法を教えて、利益が出るようにしてよ!」と言うものの、会社経営をしているから経営者なので、顧問税理士にそれを期待するのは無理だろう。私が出来るだけのアドバイスはしたものの、所詮限度がある。社長は業績の良いときにもっとお金を貯めておくのだったと悔やんでも後の祭りである。
私の提案した節税法を取り入れた会社はと言うと。業績の良いときは配当も出るので喜んでいた従業員も、いざ業績悪化で配当が出なくなると騒ぎ出した。「こんな紙っ切れ持っていてもしょうがない、株を返すので現金にしてくれ」と。社長にしてみれば節税のためとは言え、従業員の為を思ってしたことなのに、従業員はそうは取らない。社長に協力しただけで税金は自分が負担したし私のモノなのだから換金してくれと言うことなのだろう。私の妙案は不況時になって失敗であったことを思い知らされた。以後、従業員に会社の株を持たせるにはよほどルールをしっかりしておくべきであると深く反省した。
当時の関与企業で、景気の良かった時期に節税を勧めても絶対に乗ってこない社長が居た。私より若干早く県南の岩沼市で創業したガラス・サッシ工事店を営む会社である。取引銀行の行員が来て、社長に「もっと役員報酬を上げればいいのに」といかにも側に私がいるのに顧問税理士が無能のようなことを言う。税務署が調査に来ても調査官が同じ事を言う。しかしその社長は「会社が稼ぐのだからその会社を貧乏にしてはいけない」と頑として聞かない。しかし、その会社は一転不況期になった時、利益の内部留保があるので、資金もあり、銀行の融資も途切れない。当然地道な努力で赤字決算にはならない。
私はここで自分の過ちに気づかせられた。節税が客のニーズなのでそれに対応することがサービスと思っていたが、ホンモノのニーズ対応とは、目先で経営者が喜ぶことでなく、将来のことも考えて企業のために何が大事かの視点で考えないといけない。節税でなく税金を払っても内部留保に努めさせることが必要な場合もあるのだと。それを実体験で教えてくれた社長の会社は今も当事務所の大事なクライアント企業であり、既にご長男に代替わりをして今も健全経営を続けている。この社長は私より2才ほど年上であるが私に税理士の仕事の本質を教えて頂いた恩人でもある。
3.何でも経験
話は少し遡るが、開業しての1、2年の間に増えた関与企業は殆どが赤字企業等で、どこの会計事務所でも見てくれないような企業も多かった。関与して未だ全く報酬も受け取らないうちに倒産してしまう場合もあった。しかし、そもそもお金がないので弁護士も頼めず会社の整理もできない。相談は結局顧問税理士に来る。そんな時、債権者リストや会社財産一覧表等の資料を作成し、債権者集会へ社長に同道して出席した。正義感とか奉仕の精神とかではなく、単に何でも経験が勉強になると考えたからである。多いときは1ヶ月に2社も関与企業が倒産したこともある。
(1)債権者集会出席
生まれて初めて債権者集会なるものに出席した時の事。会場に着くと、既に集まっている債権者達で殺伐とした雰囲気である。私が司会をして先ず社長がお詫びをすると同時に鋭い質問が飛んでくる。中には「先生が付いていながら、何でこんなことになったんだ」と私を糾弾する声もある。そういう時は私の強気が出てくるのだろう。「私は未だ関与して1ヶ月、顧問料も一円すら貰っていない。しかし関与した責任と被害を受けた皆さん債権者のために、無償で資料を作り、今ここに出席しているんだ」と大声で返答する。一同一瞬静まりかえる。と、債権者の中で経験豊富そうな年長者が、「いやあ、こんな税理士さんも居るんだ。みんなここは先生におまかせしよう。誰か債権者委員会の委員長を選んでくれ。先生も無償と言わず回収金の中から報酬を取ってください」。他の債権者も全員賛成することとなった。
こういうことが幾たびかあったが、その中の債権者の人達と知り合いになり、「ウチは古くからの税理士さんが居るので代えられないが、先生が気に入ったので今度私の友人が会社設立するので頼む」とか、自分の取引先を紹介してくれる場合もあった。
(2)とんでもない顧問先
当初の頃は、色々な企業を関与した。紹介された企業は決して選ばす、喜んで関与させて頂いたのでとんでもない経験も沢山あった。市内の駐車場で会ったある若い社長は、自分の車をどこに置いたのか分からなくなってしまってとウロウロしていたが、程なく自動車窃盗で逮捕され、会社があった借家の自宅からは家族も消えていた。現金商売でどうも売上金を毎日抜いていると睨んで顧問解除した社長は、「自分を叱るとは大したもんだ、気に入ったので、是非もう一度深田に関与して欲しい」と紹介者に依頼して来たが断った。その社長はまもなく拳銃不法所持で逮捕された。
またある人に紹介されたマンションの自宅兼事務所の土木工事関係の会社は玄関に入ると全く普通の家なのに何となく気に懸かった。その後やはり組関係者であることが分かった。ある時当事務所の職員が訪問して仕事をしていたが、そのうち誰も居なくなり留守番役もさせられていた。そこに何とドスを構えた男が入ってきて「社長はいるか?お前はどこのもんだ。怪我をしないうちさっさと出て行け!」と言われ真っ青になって帰ってきた。2、3日後私が社長を糾弾すると。「済みません。かつては組に入っていましたが今はまっとうな堅気です。」と奥さん共々頭を下げたのでそのまま関与を継続した。しかしその後、ある犯罪で有罪となりやむなく刑務所にまで面会に行ったこともある。面会時間になるまで待合室で待つが、そこに居るのは殆どがその筋の人達ばかりでこちらに飛んでくる視線が怖かったこと。
関与企業の双方が融手先同士で一方が倒産して刃傷沙汰になってしまい、元旦に警察から電話があり、留置場まで面会に行ったこともある。その他にも、一ヶ月後行くと会社は全くもぬけの殻となっていて、いわゆる夜逃げに遭ったのもいくつかある。今となっては懐かしい思い出話になるが、当時は必死になって仕事をしていた証でもある。
4.お世話になった方々
我々の仕事は、前述のように自ら積極的な営業をすると税理士会の規約に反することとなりかねないので、知人からの紹介に頼ることとなる。そのため知人が多いことに越したことはない。それで、ゴルフや飲み会に専念する税理士が多いのも事実である。私は根本的には人との付き合いはあまり得意な方ではないので紹介された企業には真面目に仕事をしてそれを評価してもらい、そこから客を紹介していただくことが一番と考えていたし、今でもそのように考えている。また関与企業が融資を受ける際の提出書類等により銀行等金融機関から信頼されること、またこれまた得意でない(今は自分でも性に合っていると思うようになったが)講習会での講師を快く引き受けることで商工会議所や法人会等から信頼されて頂くことが当時の私の3大紹介ルートであった。
関与先企業では前述の新宿勤務だった友人の妹さんが嫁いだ人が脱サラで始めた給排水関係の会社の社長からはとりわけ多くの企業を紹介頂いた、その会社は開業後間もなく、手形の大口不渡りを食って大変であったがその後大変な努力をされて今も健在で社長夫妻の中の良さは業界でも評判である。現在は代替わりして娘婿に代表を譲った。そこから紹介頂いた浄化槽管理会社、印刷関係会社からはそれぞれまた別な企業をご紹介頂いている。既に故人となったが浄化槽管理会社の社長夫人は長らく当事務所新入職員の教育係的な存在であった。そこで紹介された、その会社の取引銀行員だったY氏はその銀行破綻前に当事務所の客の中では優良な業績の関与企業に総務責任者として紹介した。今は既に退職したがそこの役員にまでなった。その外にも多くの企業経営者の方々にお世話になったが割愛させて頂く失礼をお許し頂きたい。
企業経営者ではないが、私のお世話になった門脇会計事務所の先輩で、私が入ったときは既に退職されてそこの有力関与企業の総務部長として辣腕を振るっていた田口博康氏である。前述の節税を頑として受け入れなかった会社も田口氏から紹介された会社からの紹介なのである。田口氏からはその後も自分が勤める会社の取引企業を紹介頂き、さらに勤務会社の関連企業そしてついに自分が勤める会社そのものまでご紹介頂いた。その会社が前述のY氏が役員を務めた会社でもある。当事務所の現在関与している企業の1割以上は、元々田口氏紹介から端を発していると言って過言ではない。氏は当事務所付設の㈱深田会計マネジメンツの監査役にご就任頂いていたが、残念にも平成18年の夏に亡くなられた。当事務所は関与させて頂いている企業も含めてこのように多くの方々に支えられてここまで来たのだと思う。一々名前は挙げないが、その多くの方々に対して改めて厚く御礼を申し上げる次第です。