第2話 駆け出し税理士時代
1.開業当初
開業してもお客となる関与先がないと生活はできない。幸い、会計事務所勤務時代に独立したら深田に頼むと言う条件付きの客が1件、開業までに紹介された企業が3件、それに勤務時代の担当先がどうしても深田に頼みたいとのことで1件の計5件、月額顧問料各1万円でスタートした。お世話になった会計事務所に恩を仇で返す訳にはいかないので勤務時代の客には一切勧誘はしなかったがどうしても一社だけは社長が頑として譲らないため、門脇先生にはお詫びをして顧問として頂いた。さて、税理士事務所を開設したが、顧問料のもらい方が分からない。でも毎月訪問すると黙っていても相手が気を利かして報酬を支払ってくれる。私はそれが当然と思っていた。しかし、1社だけは2ヶ月も経つのに顧問料を支払ってくれない。決してお金が無いわけでもないのに何故だろうか。気の小さい私は言いかねていたがとうとう3ヶ月目にやっと意を決して「あの~、顧問料を支払って頂けないでしょうか?」相手の社長は何と「いつ、請求書を頂けるのか気になっていた」だと。お互いに「言ってくれれば良かったのに」と。
ところで、会計事務所の顧問料はかつて高卒女性の初任給とほぼ同額と言われていた。それが初任給はドンドン上がって行くに対して顧問料の方はそのようには上がらない。要は、事務所を開設する税理士や公認会計士が増えてきていて業界も過当競争になってきたのであろう。また税理士の事務所なのに会計事務所と何故言うのかについては、何れ詳しく書きたいと思う。
5件で毎月の収入が5万円あれば生活は何とかなるだろうと考えていた。しかし結婚しての生活費にはとても足りないのが直ぐに判明した。妻には「もう少し稼ぎがあると思っていた」と言われたのには閉口した。そこで客を紹介すると言っていた友人、知人を挨拶に回ったが言ってくれたほどには紹介は無かった。しかし、現実はそんなものだろうと覚悟はしていたのでそれほど落胆はしなかったものの、何とかしないといけないと本気で考えるようになった。お金がないので新婚旅行は近くの温泉で間に合わせ、翌年の2月開催の札幌オリンピックに連れて行くからと我慢して貰った。しかしこれも妻の妊娠で約束は果たせなかった。
2.不況の中で
私が開業した昭和46年はいわゆるドルショック(ニクソンショック)と言われて、今までの1ドル360円体制が崩れ、ドンドン円高になっていく円高不況の最中であった。それは昭和30年代から続いていた日本経済の高度成長が終焉を見た時期でもある。私がもし1、2年早く開業していれば、好況の恩恵を少しは受けられたのにと思ったものの、それは詮無いことである。どうも私は自分の人生を振り返ると美味しいとこが過ぎた後の行動が多いような気がする、それはタイミングがやむを得ずいつもそうなってしまうのである。自分が大学を卒業したのが東京オリンピック後の不況時、開業時も円高不況である。若干横道にそれるが、もう亡くなった1910年生まれの私の父が社会に出た時も昭和の大不況で家業は傾き、旧高専合格しながら進学を諦め、就職には大変苦労し、それが自分の希望でもなかった洋菓子作りに入ることになった。私が大学4年の時、父はお前も不況時に社会に出るのか!と就職を心配していたことを思い出す。今、事務所を嗣いでくれている1972年生まれの私の長男が大学卒業したのもバブル崩壊後の大混乱時の平成7年である。親子三代不況期に社会に出るのは、何と不運なことかとは思われるかも知れない。しかし私はそうは思わない。むしろそれは幸運と考えた方が良いと思う。それが長年税理士稼業をして多くの企業の盛衰を見ていての結論である。つまり好況時起業した経営者は順調にいくので好業績が自分の経営力と過信してしまい、不況時の対応が極めて弱い。逆に不況期に開業すると頑張ってもなかなか業績が良くならず、自然と経営努力をせざるを得ないからである。でもそう言う経営者も好況になると途端に傲慢になってしまう人もいるので人の心のコントロールは難しい。
3.顧問先獲得努力
そんなわけで地元仙台では既存の税理士事務所が抑えていて、なかなか新規参入で食い込むのは難しいと判断した私は、税理士が全く居ないか、あまり行かない地域に進出しようと考えた。当時は今と違い、税理士の広告宣伝や営業活動は、税理士会の綱紀規則違反となるので難しい。幸いと言おうか、私の大学時の同級生で当時、ある会計事務所に勤務していた泰邦彦君が、宮城県南の亘理町に住んでいて、地元に詳しい。そのツテで、会計事務所を探しているような企業があれば紹介して貰い、訪問するということをした。当時亘理郡内に登録している税理士は居なかった。しかし長年続いている企業は、既に、他の会計事務所或いは地元商工会等に依頼していて参入は難しい。それでも新規設立した会社には丁度良いタイミングで顧問していただいた。
最初の客は、もう少し行けば福島県となる浜通りの最県南の町に車2台で開業したばかりのタクシー会社であった。もう亡くなったがここの奥さんが親切な方で、直接顧問先を紹介してもらったり、そこの取引銀行の担当者からの紹介を頂いた。泰君からの直接紹介も含めてそこの近隣の町だけで多いときで10件近くになったのはこれで何とか食べていけると思いありがたかった。私にとって恩人の一人である泰君はその後当事務所に入り手伝って貰うこととなる。数年当事務所に勤めた泰君は自分が紹介した会社社長の長女と結婚し、その会社を継ぐことになる。
そう言う意味で亘理郡下は私の会計事務所創業の原点でもあり、今でも顧問を継続して頂いている会社がある。既に経営は2代目や3代目に代わっているが。当時は、仙台と異なり、未だのんびりした生活感があり、お昼には地元で取れる海産物や農産物がお膳に上がり、それがまた行く楽しみでもあった。どの季節だったか忘れてしまったが、シーズンになると近くの海で小さなカニが沢山とれて美味しく、カニ好きな私を喜ばせてくれた。今は全く採れなくなったそうであるが、護岸工事の影響なのだろうか残念である。亘理地区は暖かく豊穣の地でもあるためかおおらかな気持ちの人が多いような気がする。
ある会社に午前中に着く予定が遅くなり、昼近くの到着となりそうなので途中食堂に入り、注文してから、電話をし、「午後の到着となります。今、食事をしていますので」と言ったところその社長に偉い剣幕で怒られたことがある。「深田さん、水くさいな。ウチは貧乏会社でもあんたに昼飯ぐらい出せるよ。もう寿司を注文したから直ぐに来い」と。偶々その日はトンカツ定食を注文したので小食の私には満腹過ぎるほどであったが、その会社に着いて、大振りの握り寿司を涙を流して食べたことがある。それ以来、お昼に係りそうな時は、「済みませんお昼もご馳走になります」と電話すると。「分かった」と満足そうな社長の声が受話器の向こうから聞こえてきた。
そのような思い出深い地域もその多くが平成23年3月11日の東日本大震災による大津波で様相が一変してしまったのは真に残念である。泰君の自宅、そして彼の奥さんの実家も津波に流されてしまった。
4.月次訪問
当時の会計事務所の顧問は、通常毎月、顧問料は頂くがそれだけであり、何か相談事があれば客が事務所に出向くというスタイルが多かった。会計事務所が客先に出向くのは決算申告時程度である。或いはそれも資料を事務所に持参させるというところもあった。当然月次決算などの言葉はなく、企業は申告日の直前になってから、利益と税額を知らされ、その額に呆然とすることがしばしばであった。そこに経営者から何とかならないのかと言う言葉が出ても当然であろう。私はそう言うスタイルには批判の気持ちがあつたので、当初から企業には毎月必ず訪問することを自らに課した。また行くからには月次の損益が分かるように次月には前月の損益を明示した。当然、決算日前にその期の損益がおよその額で読めるようになる。それは当然のことだと思って続けていた。しかし意外とそれが評判になったようである。ウチの事務所は毎月来てくれるよ、税金も事前に大体分かるよ。
私にとっては当然のことが当時の会計事務所業務の常識からは外れていたが、顧客ニーズには合っていたのであろう。少しずつ岩沼、名取と仙台に近いところで客が増えてくるようになったのはうれしかった。開業の翌47年の5月は3月決算の企業が連日のように顧問先となっていった。笑いがとまらないというのはこういうことか。ほぼ日曜日毎にホテルのレストラン、フランス料理店等に連れて行くことができるようになり、妻に喜ばれるようになったのもこの頃である。しかし、増えた顧客企業の多くが今から思えば、どこの会計事務所も見てくれないような零細かつ赤字企業であった。