会長 深田一弥の異見!

2025年9月1日

素晴らしい縄文時代

 宮城県多賀城市の東北歴史博物館で9月15日まで開催されている特別展「世界遺産・縄文展」を見てきた。北海道や東北の各地から出土した多くの土器、土偶や装飾品など展示内容の素晴らしさにしばし時間を忘れてしまった。縄文時代は約1万6千年前から2千4百年前まで1万年以上にわたり続いた。私が中学時代に習った歴史では縄文時代は次の弥生時代に繋がっていく前の古い時代だという程度の知識だったが、二十年ほど前に青森の三内丸山遺跡を見てその文化の高さに感銘を受け、それから色々調べていくと縄文時代とは日本の特に東北・北海道では先進的で素晴らしい文化の時代であったことが分かってきた。

 縄文時代は比較的温暖な時代だったようで、日本の北方にこそ人類が多く住んでいたらしい。つまり落葉広葉樹林帯でミズ、ブナ、クルミなどのうっそうとした森が広がり、そこには多くの木の実が成り、それが食用にもなるし多くの動物が集まり、川や海は多種類の魚介類が豊富にあった。人々は採取で十分な食料が確保された生活ができるため、集団はあっても、集団間に争う必要がなかった。狩猟手段はあっても戦いの武器は必要が無いためその発達はなかった。生活に余裕があったためか火炎土器や遮光器土偶に代表されるように芸術生が極めて高いものであった。また結構な広域で活動していたようで、北海道産の黒曜石の鏃や糸魚川産の翡翠の加工品などが東北各地域から出土している。宮城県南の白石市では縄文時代の地層から製鉄跡が見つかったとの話も聞く。

 しかし長らく縄文時代が歴史で脚光を浴びることがなかった。それには西日本で弥生時代から続く大和政権からみれば東北や北海道は未知の地であったことも関係しているのではないか。三内丸山遺跡も既に江戸時代に発見されるも無視されたし、それは明治時代になっても変わらなかった。漸く脚光を浴びたのは1990年代になってからである。それでも日本の考古学会では大々的に取り上げられたと言う話は聞いていない。知日家でフランスのシラク元大統領が初就任で日本人記者団と会見した際、傍らに飾ってあったのが縄文の火炎土器であったと言う。それが何なのか記者団の誰も知らなかったそうだ。

 1970年の大阪万博で岡本太郎が制作した太陽の塔は岡本氏が縄文土偶から構想を得たと言われている。それでは縄文時代、日本の他地域にはどれだけ人類が住んで居たのであろうか。日本の西南方向はシイやカシの照葉樹林帯と言われていて、広葉落葉樹林帯のような豊穣さが無く、それほどに多くの人類は住まなかったのではないか。それで大陸や朝鮮半島から渡ってきた人達は、食料調達を自ら栽培する必要があり、水田米作が広まっていったのではないか。人口が増えるとより広い土地が欲しくなり集団間の争いが盛んに行われるようになったと思われる。

 地元に元々少なかった縄文人は恐らく彼らに追い払われるかあるいは同化していったのではないか。やがて弥生人はさらなる土地を求めてドンドン北上してきたことがうかがえる。また日本は、温暖な気候から段々寒冷化に向かっていき、縄文人は北海道から東北南部そして関東にまで南下してきたようだ、そうなると北上してきた弥生人と抗争が起きてやがて武器に優れた弥生人に縄文人は征服されていったことがうかがえる。縄文土器や土偶の芸術性からみると弥生式土器にはあまり芸術性は見られず、また土偶でなくせいぜい埴輪だけとなってしまった。


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