会長 深田一弥の異見!

2014年12月29日

米国とキューバ国交正常化交渉と某大新聞コラム

 年末にビッグニュースが飛び込んできた。米国は、オバマ政権の信頼回復を狙ってか、隣国ながら50年以上も敵対関係にあったキューバと国交正常化交渉に入ると言う。かつてキューバは親米政権であったが、1959年にチェゲバラやカストロによるキューバ革命で米国マフィアとの関係等腐敗していた政権を倒し社会主義政権を樹立した。特に革命途上で無くなったチェゲバラは当時日本の左翼学生にとっての英雄でもあり、キューバにシンパシーを感じていた若者は少なくなかった。

 ところで革命で政権の座についてフィデルカストロは継続して米国に援助要請をしたが、米国は社会主義政権であることを理由に断り、さらにカストロ政権を軍事力で倒すべく亡命キューバ人を応援したピッグス湾事件を起こすが失敗し、さらにキューバ国内での破壊活動を応援すべくマングース作戦を開始するも効果は挙げられなかった。米国からの援助を打ち切られ、さらに軍事的な圧力をも加えられていたカストロは旧ソ連に接近し、武器供与を要請した。

 ソ連は表だった武器供与は米国を刺激すると考え、核ミサイルを供与した。そのためキューバには米国に向けたソ連製の核ミサイルが配備されることとなった。その中には米国本土を射程内とする中距離弾道弾もあることを米国のU2偵察機が確認した。米国軍部は直ちにキューバのミサイル基地の空爆を主張したが、時の大統領JFケネディはそれを抑え、海上封鎖をしてキューバに向けたソ連船の臨検を大西洋上ですることを通告した。海上封鎖と臨検は爆弾や弾丸が飛び交わないものの事実上戦争行為を意味する。米ソは一触即発となったがソ連船は海上封鎖の寸前で引き返し、戦争は回避された。
 このとき米軍はソ連との全面戦争に備えてソ連まで到達する核弾頭の大陸間弾道ミサイルの発射準備をし、核爆弾搭載の戦略爆撃機や潜水艦をソ連国境近くで待機させた。また在日米軍も臨戦態勢を敷いた。これをキューバ危機という。

 この一連の出来事は1962年だが、私は大学1年で英会話取得の目的もあり、仙台市内のアメリカ文化センターに出入りしていたが、あの時の館員の緊張感は半端でなかったことを記憶している。その結果は有名なケネディとフルシチョフの間での交渉でキューバからのミサイル撤去を行い、その後、アメリカとキューバの間は冷戦状態が50年以上も続くこととなった。この歴史的和解を国内の新聞各社は好感を持った記事で飾ったが、その多くがキューバで余生を送ったノーベル賞作家ヘミングウェイの「老人と海」をコラムに引用しているのがワンパターンで笑いがこみ上げた。その中でも大手のY紙のコラムの文には驚きその筆者の不勉強さにはあきれた。

 そのコラムには「一触即発の「キューバ危機」は1962年(昭和37年)のことである。(中略)日本はまだ貧しく、多くの人がその日の暮らしに追われていた」とある。日本の経済白書は「もはや戦後ではない」と謳ったのが昭和31年である。昭和37年には日本経済は戦後の混乱を脱して既に高度経済成長期に入っていて、一般家庭には三種の神器として白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫の電化製品ブームとなっていた。日本人の多くがその日の暮らしに追われていたのは昭和20年代のことだ。大新聞のコラムニストともあろう記者がこんな体たらくでは。

 Y紙はA紙の従軍慰安婦報道を盛んに糾弾している新聞の一つだが、その前に自己反省が必要ではと感じた。


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