会長 深田一弥の異見!

2012年6月11日

最後の武士道

 上海から海岸線を約800㎞南に厦門(あもい)があり、その東方海上2㎞に金門島と言う小さな島がある。何とそこは中国領ではなく中華民国(台湾)領である。台湾からは180㎞も離れているのにだ。現在の中国の国力からすれば一蹴できそうにも見えるこの島は、1948年に毛沢東率いる共産軍に大陸で敗れ、台湾に移った蒋介石率いる国民党軍の最後の砦となった場所である。もし金門島が共産軍の手に落ちていたら確実に台湾は共産中国の領土になったことであろう。当時破竹の勢いの共産軍はこの島もそして当然台湾も簡単に落とせると踏んでいたに違いない。
しかし侵攻した共産軍は1949年に大敗を喫して以来、50年代にも大量の砲撃を加えるもののこの島を奪取できずに21世紀に至っている。もし、台湾が共産中国の手に落ちたら、我が国の防衛やシーレーン確保に多大な影響を及ぼしたことが考えられる。ところが国民党軍の金門島死守には日本人が関わっていたという。

 終戦時、日本陸軍北支那方面軍司令官根本博中将は、ソ連軍の暴虐さを知悉していたので軍人なら絶対服従すべき天皇陛下命令の武装解除を敢然と拒否し、侵攻してきたソ連軍を撃退させ、内蒙古在留数万の日本人同胞を守り無事内地へ引上げさせた。一方、在満州の日本人は関東軍が早々と武装解除に応じたため、侵略してきたソ連軍に虐殺、略奪、強姦等の悲惨な目に遭ったことはよく知られている。根本はその後国民党率いる蒋介石に降伏し武装解除に応じた。死を覚悟した根本に蒋介石はむしろ元気づける言葉を掛ける。この時根本は「何れ閣下のお役に立つことがあればはせ参じる」と蒋介石に誓った。

 その蒋介石が国共内戦に破れ台湾に撤退し、米国の応援も断たれ風前の灯火になったことを知った根本は台湾行きを決断する。当時日本は米国占領下で自由な出国は出来ず台湾に渡る方法もない。その上資金もない根本にとって困難なことであったが、協力者が現れ決行する。九州の港から二十数トンの小舟で密出国し這々の体で台湾の基隆についた根本は同行者と共に逮捕監禁される。
しかし必死の抗議が功を奏し、やがて蒋介石の耳にも届き、面会を許される。蒋介石はあの時約束した日本軍人が自分の危急時に本当に来てくれたと感激し、大陸からの共産党軍侵攻を食い止めるため国民党軍の顧問に遇する。根本は当時厦門にあった国民党軍の大陸最後の根拠地を防御上の観点から近くの金門島に移す。根本の助言を受け国民党軍は、勢いに乗って上陸した共産軍の帰路を封じて殲滅し、再攻意思を粉砕してしまう。この際も住民の安全に留意している。
それ以後金門島は中華民国の領土のままである。蒋介石率いる国民党政府は台湾生え抜きの本省人への過酷な圧政等批判も大きいが台湾を共産化から救った功績は大きい。

 しかしこのような根本の働きは中華民国の歴史からは抹殺されている。2009年金門島で開催された60周年記念式典に当時の根本関係者の子息達が日本から招かれ出席し、馬英九総統から直接ねぎらいの言葉を掛けられたのはそれが史実であった証という。その内の一人は、情報活動で日露戦争の勝利に貢献しのち台湾総督となった明石元二郎の孫、元紹であるが、その父元長は根本を台湾に送り出すのに奔走して命を縮めた。

 義に報い義を尽くした福島県出身の軍人、根元博の行動は最後の武士道と言える。こういう事は我国でもっと知られるべきであろう。


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