会長 深田一弥の異見!

2020年11月4日

日本に李登輝のような政治家は生まれないのか

 今年の7月末、台湾の李登輝元総統死去が報じられた。アジアの各国には、親日と言われたトップは何人か名前が知られているが、李登輝は自ら、「22歳まで日本人であった。」と公言するほどの親日家であり、中日英のうち、一番得意な言語は日本語だったと言う。

 子供の頃から優秀な彼は、台湾人では数少ない台北の旧制高校である台北高等学校に入りその後京都大学農学部に学んだ。高校時代から哲学に親しんだが、新渡戸稲造の「武士道」に啓発されて、新渡戸が札幌農学校の出であることもあって農学部を選んだと語っている。日本語で書いた「武士道解題」との著書があり、私の蔵書の一冊でもある。

 日本敗戦後、蒋介石率いる国民党軍が中国本土での毛沢東率いる共産軍に敗れて台湾に逃れてきて以来、国民党は日本統治時代のエリート達を強制的に排除する「白色テロ」の恐怖政治を行い、多くの有能な台湾人が命を奪われた。彼もその対象になる懸念があったため一時身を隠すことになった。その国民党への反発から一時共産党に入党したこともあったが、共産党の限界を感じて直ぐに離党したという。その後アメリカに留学し、農業経済についてさらに磨きを掛けた。

 蒋介石が亡くなり、その息子、蒋経国が総統を継いだが、経国は、父介石と異なり、それまで本土から来た国民党員ばかりが政治の中枢に居たのを、台湾人も優秀な者は積極的に登用した。丁度、その頃米国留学から帰り、台湾では農業の第一人者となっていた李登輝を知り、彼を招聘した。李登輝は、国民党にネガティブな気持ちはあったものの、現実主義者の彼は、台湾のためにと進んで入党し、台湾農業のために辣腕を振るった。それに感服した経国は、彼を引き立てついに副総統にまでにした。

 間もなく経国が急死すると規定により副総統の李登輝が総統に就任する。それからの李登輝は、矢継ぎ早に国民党政府の改革を進めた。既に台湾は、中国の加盟で国連を追われていたが、それまでの中国大陸の亡命政府的な中華民国政府を、台湾に根ざした政府にしようとした。先ず、総統をそれまでの世襲制から民選で選ぶ民主主義制を進めた。教育改革にも手を付け、それまで歴史教科書も中国本土の事ばかりでしかも日本に敵対する内容であったのを、台湾の歴史主体にし、日本統治のプラス面も明らかにした。現在の台湾の民衆が大変に親日的なのには李登輝のこのような改革による面も大きい。

 そんな親日的トップだった李登輝が総統時代は、日本政府は来日について否定的であった。それには李登輝総統来日には中国から、強く反対の圧力があったからであった。そんな中国に対して弱腰の日本を李登輝は独立国なのにと皮肉を述べている。かつての強国日本を知る李登輝にしてみれば、敗戦後は他国の顔色を伺って右往左往する日本の政治家や役人を苦々しく思っていたであろう。

 総統退任後は、時々日本を訪れていたが彼は、日本の若者に向かっても「日本人のアイデンティティをしっかりと持て」と来日時の講演でも語っている。総統時代に中国からの圧力にも断固として台湾の独自性を守った彼からすれば、現在の日本は本当に歯がゆい思いだったようだ。何度目かの来日事には夫人と奥の細道を巡り松島で句を詠んだこともある。李登輝のように哲学を持ち、個人の感情や価値判断よりも国・国民の利益のために尽くす、いわゆる「武士道」を体現するような政治家は日本から生まれないのだろうか?


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