平泉の世界遺産登録
平成23年6月に岩手県の中尊寺を中心とする平泉一帯がユネスコの世界遺産に登録された。最初の申請が駄目になり、再チャレンジで見事登録が認められたのは東日本大震災で心がうちひしがれていた東北の住民にとって明るい話題で大変喜ばしい。
しかし、中尊寺建立の悲願である「浄土思想」と言うのが外国の審査員にはなかなか伝わらなかったのではないか?藤原(ふじわら)清衡(きよひら)が当時正に辺境の地であった奥州にこのような大伽藍を建立したのは、その財力にも驚くが彼が幼少時代から続いたこの地の戦乱が無くなることへの祈願とその間の多くの敵味方の戦死者や死に至った住民への鎮魂の強い思いがある。金色堂の豪華絢爛さは未だに衰えていないし、そこにある装飾品は南洋から夜光貝の螺鈿、アフリカ象の象牙等、平安時代にどのようにして入手できたかに驚く。恐らく、ここに見学にくる多くの人々は国内、海外を問わず奥州の覇者のこのような財力に驚嘆するのであろう。
でも東北に住む者にとっては、この遺産は我が国の時々の中央政府が長期間如何にして東北地方を侵略しかつその資源を略奪せんとしていたかのモニュメントでもある。
西暦2、3世紀と言われる日本書紀景行天皇紀に「東(あずま)の夷(ひな)の中に日高(ひたか)見(み)の国あり、(中略)亦(また)土地沃壌(よくこえ)えて曠(ひろ)し。撃ちて取るべし」とあり4世紀には現在の仙台を拠点とした大和朝廷の支配が始まった。しかし、完全支配にまではほど遠く、それは9世紀の坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)によってようやく東北全土が平定された。
しかし都からは遠いため各地の地元土豪を通じての間接支配になったのだろう。その中で豊富な資源を背景に力を付けてきたのが奥(おく)六郡(ろくぐん)(現在の岩手県)を根拠とする安倍氏である。この財力を妬み、攻めようとしたのが当時(11世紀)多賀城を本拠とする国司の藤原登(のり)任(とう)であるが安倍氏に返り討ちに遭う。登任は都に逃げ、朝廷に安倍反逆の讒訴(ざんそ)をする。
そこで派遣されたのが関東に燻っていた源氏の頼義・義家親子である。彼らも任期中に安倍氏の財に目がくらみ我がものにしようと画策する。それに安倍氏が対抗したのが前九年の役であり、頼時の子貞(さだ)任(とう)、宗(むね)任(とう)兄弟と女婿で朝廷側から転じた藤原経(つね)清(きよ)が獅子奮迅の戦いをして何度も撃退するが、源頼義は出羽(秋田)の土豪清原氏を引き入れて安倍氏を滅ぼす。貞任は戦死、宗任は降伏、経清は惨殺された。
しかし源氏の思うようにならず戦果は清原に横取りされてしまう。すると今度は清原の内紛に乗じて源義家は前九年の役で惨殺された藤原経清の実子で清原の養子となっていた清衡を引き入れて清原を滅ぼす。これが後三年の役である。それでも成果を自らは得られずに朝廷は清衡に安倍氏と清原氏の領地を与え、清衡は元の藤原姓を名乗る。藤原清衡は生まれてから成人まで歴史にと言うより朝廷の都合に翻弄されたと言えよう。彼の言う「浄土思想」とはそう言う経緯で醸成されたことをよく認識すべきと思う。源氏の野望はそれから約100年後頼朝の時代になって適うのだが。
ところで前九年の役で降伏した宗任はその能力を買われ源義家の参謀を務めて後に長門の国(山口県)に封じられた。安倍晋三元首相はその宗任の末裔である(深田が直接ご本人に確認した)。また晋三氏の母方の祖父であり兄弟で首相を経験した岸信介、佐藤栄作両氏は、平泉三代目秀衡が源義経に付けた信夫(現福島県)の猛将佐藤嗣信、忠信兄弟の末裔と聞くが未だ確証を得ていない。