会長 深田一弥の異見!

2012年4月16日

地震・津波予知

Ⅲ 地震・津波予知

 東日本大震災から早いものでもう1年以上も過ぎた。仙台市内ではあの震災の痕跡を見つけるのは難しくなっている。町は人通りで溢れ、デパートや高級専門店の売上げは前年対比2桁増と言う景気の良い話もあるし、夜の国分町も賑やかだ。建設・建築関係も活況で他県遠くは九州からも仕事を求め多くの職人が来ていると言う。デフレ不況で長らく低迷していた不動産市況も最近は需要が旺盛でも土地の供給は少なく、瞬く間に値上がりしていると言う。従って、企業収益も昨年とは様変わりで好業績となっているところが多い。震災の影響を市内で探すと、地震で壊れた建築物の撤去で空き地が目立つ程度であろうか。しかし、津波被災の沿岸部に行くと瓦礫の片付けこそ何とか形がついたものの、全くと言ってよいほど復興は進んでいない。まして原発のあった福島沿岸部はさらにひどい。死の町と言って罷免された大臣が居たが正にそう言っても過言でもない。

 今回の大災害は「想定外」と言う言葉が盛んに使われているが、本当に想定は無理だったのか? 敢えて誤解を恐れず言えば、皆が無知で傲慢で不用意だっただけではないのか。
仙台市在住の郷土史研究家飯沼勇義さん(1930年生)は、小学校教員時代から宮城県の津波歴史を調査していた。それは師範学校時代に興味を持った郷土史がところどころ何年、あるいは何十年の空白があるのに疑問を持ったことから始まる。そこで得た結論はその空白が大津波と関係があることを突き止めた。現代人は平野部に津波は来ないと考えていたが、飯沼さんの調査で仙台平野は何百年かの度に大津波に襲われていたことが分かった。

 724年にそれまで仙台にあった国府が多賀城に移転したのも津波が原因ではという。百人一首で有名な清原元輔の「末の松山浪来さじとは」の波は869年の貞観津波のことである。飯沼さんは1994年に宮城県知事と仙台市長に対して、近い将来大津波来襲の懸念とその対策を建議した。しかし、その提言は無視されたようだ。実は、大学の地質研究者等でもこれらの地震と津波の研究をしていて、かつて仙台平野には度々大津波が押し寄せた形跡が地層を調べることで明確であったことを学会で発表した学者も居たのも事実である。

 宮城県では、数年前から震度6クラスの地震の発生がかなりの高確率であることが地震学者と行政からも発表されていたので住民は心がけていたが、津波の発生は寝耳に水であった。つまり、学者の予知していた地震と東日本大震災とは異なるものであったようだ。これほど地震予知は難しい。実は、東海地震発生については三十数年前から言われており、その予知のために既に2千億円が投入されたと言う。それを批判した元北海道大学のS教授は在職時のえん罪に近い罪状で起訴された。つまり地震予知は一部の学者と行政がらみとなっていてそこには利権もあり批判できないシステムになっているという。これでは誰のための予知研究かと言いたい。それほどのカネを掛けても予知できないのなら、その金はむしろ地震・津波が発生した際住民を守るための設備に投入した方が良いのではないか?

 地震予知は地震学者のみに任せるのでなく、町の歴史家をも含めた人文科学と地質学等も含めた自然科学の広く人材を集めて総合的に行うべきではないか?地震予知に限ったことではないがどうも一部学者の権威と行政の利権が絡んでくるとろくな事がないようだ。


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