何が神の手だ!
11月25日、サッカー界の天才的なスーパースターだったアルゼンチンのマラドーナが亡くなった。メディアでは、「サッカー界のレジェンド。世界のみんなに愛された天才亡くなる!」と大々的に報じた。テレビでは特集番組を組んだほどだ。
サッカーファンでもない我々がマラドーナを知ることになったのは、1986年W杯準々決勝イングランド戦だった。前半戦は0対0の戦いであったが、後半開始6分にイングランドのゴール前でアルゼンチン側が上げた浮き球を彼が左手で押し込んでゴールした。写真を見ても明らかにハンドの反則である。しかし、審判が見えなかったのか、あるいは天才に忖度したのかは知らない。はたまたアルゼンチンに勝たせたい何らかの力が作用したのかは知れないが、判定は覆ることはなかった。今ならビデオ判定という手もあるのかも知れないが、当時は審判の判定が絶対だったのだろう。
誤審に呆然として怒りで未だ心の動揺が収まらないイングランドの選手の前で4分後には5人抜きのドリブルでダメ押し点を入れた。この試合の4年前に、フォークランド戦争でアルゼンチンはイギリスにコテンパンにやっつけられた後なのでアルゼンチン国民はこの勝利に驚喜したという。試合の後で彼は最初の1点は明らかにハンドであることを認め「神の手に触れた」と語った。この「神の手」を、当時のサッカー界もメディアも批判するどころか褒めそやして彼をサッカー界のレジェンドに押し上げてしまった。
確かに、彼は当時他より抜きん出た天才と言って良いプレーヤーであったことは間違いないだろう。しかし、だからと言ってハンドの反則プレーを見過ごして良いものではない。素人の私から見れば、もし、彼がその場でハンドを自ら認め、ペナルティーを貰ったとしたら彼の名声はもっと上がっていたのではないか。それではイングランドに勝てたかは分からないし、その後の優勝もなかったかも知れない。当時の審判の判定は絶対で、自ら反則を申し出ると言うルールは無いのだろう。
しかし、そうであれば、あのプレーを彼は、恥じるべきなのだ。それを「神の手」と言いつのり、それをまた周りが賞賛するのはどうかと思う。現在のサッカーの試合でも他の競技と異なり選手の反則が多いのには、彼の「神の手」発言も大きいと思う。要するに勝つためには少々の反則プレーはやむなしで審判が見えなければ良いのだという気持ちがサッカー選手の底流にあるのではないか。
長年開催されているW杯だが、1986年の準決勝のイングランド対アルゼンチン戦は最大の汚点だと言いたい。それなのに何故、あれほどにメディアは彼を賞賛し、あの試合を後々まであたかも名試合のように語るのか、またそれに乗じてサッカーファンも狂喜するのか、サッカーにそれほど興味のない私には信じられない。
彼が、スポーツ界、サッカー界のレジェンドと言われるにはそれだけの礼儀正しさが必要であろう。ただ、勝ちさえすれば許されるものではない。それがサッカーの天才だと誰もが認めるマラドーナだからこそレジェンドと言われるには紳士であることが求められるべきだ。
引退後の彼の生活態度も決して褒められるべきことではなく破天荒だったようだ。何故彼だけかそれを許されるのか私は信じられない。世界にあまた居る熱心なサッカーファンそして彼の熱烈な信奉者からごうごうたる非難を受けることを承知でもう一度言う「何が神の手だ!」と。