会長 深田一弥の異見!

2012年4月23日

交際費課税と原子力発電

Ⅳ 交際費課税と原子力発電

 法人税の所得計算において、企業の接待交際費は支出したその全額が損金として差引かれるのではなく、企業規模によっても異なるが限度額が租税特別措置法によって設けられている。これが企業経営者に評判の悪い交際費課税である。接待交際費は企業会計上費用なのでその全てが損益計算の際に差引かれるのが当然であり、それは法人税の所得計算でも同様である。確かに我が国でもある時期までは接待交際費は全額損金であった。
それが昭和28年の税制改正で限度を設けるべきとの議論があり法人税法の改正案が国会に提出されたが、丁度吉田茂首相の「バカヤロウ解散」で頓挫してしまった。それが翌29年の国会で租税特別措置法として再登場し成立したものである。提案理由を見ると「企業の接待交際費支出の状況は目に余るものがある。
我が国の企業は元々資本不足なのでより資本蓄積を図る必要があり、そのため冗費を節約することが必要」とのもっともらしい理由が付けられている。それではそれ以後接待交際費の支出が激減したかと言うとあまり効果はなかったようだ。そもそも企業の行動を税制で正そうと言うのが果たして妥当なことであったのか?交際費課税は3年間の時限立法だったが60年近く経った今も続けられている。

我が国の原子力発電は、29年に当時の改進党(後自民党)の中曽根康弘らの議員から2億3千5百万円の原子力研究開発予算が国会に提出されたことを嚆矢とする。翌30年には原子力基本法が成立し原子力利用の大綱が定められた。31年には東海村に日本原子力研究所が設置され、32年には日本原子力発電株式会社が設立された。同社により東海村で38年に動力試験炉による初めての原子力発電が行われた。最初の商用原子力発電も同社によって行われ当初は英国製の黒鉛炉であったがその後は経済性の点で米国製の軽水炉となり現在の原子力発電に繋がる。
しかし、初めて原子力発電の予算を国会に提出した29年は日本が未だ戦後経済から脱却していない頃で国の予算も極めて窮屈であり、政府も予算捻出に苦労したことは想像に難くない。これが交際費課税の法案をどうしても通したかったことと重なってくる。

 この頃、大蔵省主税局税制担当に交際費課税法案成立のため辣腕をふるっていたYという若手キャリア官僚が居た。彼の日頃からの口癖は「(歓楽街)銀座の灯を消して原子の灯を点そう」だったと言う。これは当時Yの部下だった方から私が直接聞いた話である。東日本大震災により壊滅的な被害を受け、近隣住民を地獄の底に叩き込んだ感の福島第一発電所は、我が国、いや、世界の原子力発電にその是非を問いかけることとなった。原子力発電と交際費課税にこのような関連があったことを知る人は少ない。

 ところで、件の若手官僚Yはその自信過剰からその後国税庁を揺るがす大事件を起こす。高杉良の筆になる「不撓不屈」のモデルとなった飯塚毅税理士との確執から来た飯塚事件である。昭和38年、同税理士の管轄国税局勤務となったYは同税理士の事務所と関与先に述べ数千人の国税査察を掛け、脱税教唆で起訴しようとするが証拠なく不起訴、やむなく事務所職員数人を起訴するがこれも全員無罪となった。正にえん罪で、時の国税庁長官は引責辞任した。しかしYは官僚として順調に出世し、退職後は某生命保険会社副社長に天下った。


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