会長 深田一弥の異見!

2024年8月1日

「命のビザ」を繋いだ日本人たち

 シナイ半島ガザ地区でイスラエルはハマステロに対し100倍返しとも言える報復を続けている。歴史は遡り、1940年7月の早朝、バルト三国のひとつリトアニアのカウナス在日本領事館の周りを多くのユダヤ人が取り囲んだ。彼らはナチスドイツから逃れて安全なリトアニアに来たが、そこも間もなくソ連に併合されることとなった。ソ連も決して彼らにとって安全ではなかった。大陸から脱出を試みるも英国や米国の大使館は彼らに冷たくビザ発給に応じなかった。日本領事館の杉原千畝領事代理は何とか彼らを救いたくも我が国は避難民を受け入れない。そこで知人のオランダ領事の智恵で最終目的地をカリブ海の孤島オランダ領キュラソーにし日本通過ビザを発行した。いわゆる「スギハラビザ」で彼らは後に「命のビザ」と呼んだ。

 次々に我が国に来るユダヤ人を知り、外務省は杉原にビザ発行停止の訓令を出すが彼は無視し続けた。ソ連から退去を命じられカウナスを去るまで発行し6千人のユダヤ人の命を救った。彼はソ連大使館と交渉しユダヤ人が日本への航路があるウラジオストックまで鉄道の無事移動を可能とした。日本外務省は彼らの入国を日独伊三国同盟のドイツに配慮して許可を渋ったが、杉原の後輩でもあるウラジオストック領事根井三郎は「我国公館が発行のビザを無視すれば我国の国際信用に関わる」として彼らを日本に向けて出航させ、ビザのない者には自らビザを発行した。

 ウラジオストックから福井県敦賀までの船はJapan Tourist Bureau(現JTB)の青年社員大迫辰雄が米国のユダヤ人協会からの依頼を受けて手配した。彼は乗船してウラジオ敦賀間を20回以上往復し、彼らの食事や病人の世話、パスポートのない者にはユダヤ人協会からの身分保障の現金を配った。漸く敦賀港に着いた彼らの多くはボロボロの服装に垢だらけのみすぼらしい様相であった。それを見た敦賀市民は、無料で食事や衣服、旅館や浴場は営業を停止してまで提供し、医師・看護婦も協力した。彼らは後に当時を振り返り「敦賀は我々にとって天国だった」と。

 彼らの多くは神戸に向かったが、大問題が発生。彼らの持つ通過ビザの期限は10日間でそれを過ぎると本国へ強制送還されてしまうが、外務省は頑としてビザ延長を認めなかった。困った彼らはその一部が知っていた日本人ユダヤ教学者小辻節三に連絡した。小辻は早速旧知の松岡洋介外務大臣にビザ延長を依頼した。松岡は、軍部の圧力もあり外務省としては延長できないが、と言い、小辻にあるヒントを与えた。当時のビザは地方自治体の警察が管轄していた。彼は資産家の義兄に相談すると義兄は「人間の命のために私が使う金だ」として多額の現金を渡してくれた。

 彼は直ちに神戸に向かいそこの警察幹部たちとユダヤ人問題について懇談したいと持ち掛け一流の料亭で接待し、3度目の接待の際に実はとビザ延長を懇願したところ、必要があれば何度でもと延長の許可を得た。やがて彼らの多くは、ビザのいらない中国上海の日本租界に向けて旅立った。そこから米国やカナダに移住した者も居た。

 ドイツに心酔していた我が国軍部はユダヤ人に厳しかったが、一般市民はユダヤ人に対しての偏見がなく人間として扱ったことは歴史に留めておくべきである。ユダヤ人国家イスラエルは国際的な批判にも関わらずパレスチナ人へ暴虐な対応を続けている。当時ユダヤ人を救った日本人達は泉下でどう思っていることだろう。


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