会長 深田一弥の異見!

2014年5月10日

「おもてなし」に異論

 昨年の秋頃から「おもてなし」と言う言葉がメディアにあふれている。それは昨年の9月7日アルゼンチンのブエノスアイレスで開かれたIOC総会における2020年オリンピック開催地を決定する席上、立候補していた東京都のプレゼンテーションの中で、美女タレントの滝川某が「おもてなし」と身振り手振りで紹介したことにより一気にブレークした。多くの人がこの言葉をこの時初めて聞いたような顔をしている。

 しかし私の記憶が確かであれば、この言葉がメディアで最初に登場したのは、もう既に多くの人は忘れているかも知れないが、今を去る2003年のことと思う。かつて経営不振に陥った日産自動車をリストラの大ナタを振るって復活させたカルロスゴーン社長が、新車「ティアナ」の発表会の席で、車のコンセプトは「クルマにモダンリビングの考え方」として、その助手席を「おもてなし」シートと紹介した。

 「おもてなし」を何度も繰り返し言うのを聞いて私は違和感を覚えた。何故なら日本語の使い方では、自らそれを言う時は「もてなし」または「もてなす」であろう。例え丁寧語としても大人なら自らの行動に「お」はつけないだろう。もてなしを受けた方が相手に感謝して「おもてなしを受けた」と言うのが通常の言葉の使い方と思う。「おもてなしをする」とは普通の日本人ならば使わない。カルロスゴーン氏は外国人なのでそんな使い方も「まあ、やむを得ないか」とその時は思った。

 それから十年以上経過して、滝川某女も日本人ではあるがどうやら外国人の血も入っているらしいが、世界の人々が集まる中で突然、いかにも日本文化のこころを紹介するがごとく「おもてなし」と言ったのだ。日本文化は相手に対して常に謙虚に振る舞うのが伝統なので自らは「もてなす」ことに心を込めて行い。それを「おもてなし」と相手が感じてこそ発生する言葉なのに、自ら「おもてなし」と言うのは、いかにもそれを相手方に強要するかの如き使い方なので違和感を覚えるのだ。

 ネットで「おもてなし」を検索すると、「もてなし」の丁寧語であるとか「もてなす」の名詞ともっともらしく説明しているのもあるが私はそうは思わない。「もてなす」はへりくだった気持ちで相手に心から対応することだと思うのであのような場で「おもてなし」が受けられますよとは上目線の言い方としか考えられない。しかし、これで東京にオリンピック開催地が決まったのだから結果オーライだとの意見もあるだろう。また言葉の使い方は時代と共に変化していくのだから、そんな堅いことを言うべきでないとの考えもあるだろう。

 しかし、私はどうも深遠な日本文化を「おもてなし」と言う使い方で大変軽々しいものになってしまった感がどうしても強い。また、このことに違和感を覚える人達が居ないわけでもないのに、大衆に迎合するのかそういう意見があまり表に出てこないことも腹立たしい。

 日本では一つの方向性ができると、それも大抵はメディアが作り出していることが多いが、それに異議を唱える意見は無視されるかあるいは袋だたきに遭うと言うことがしばしば起こる。だから言いたくても言えないのかも知れない。ここは年寄りの戯言と思われるかも知れないが、ひとこと言っておくべきだとの考えで紹介した。

 何度も言うが、「おもてなし」は受けるもので、するものではない。また、「おもてなし」が受けられますよとの言い方もおかしい。


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