第10話 融通手形の怖さと人情話
最近は我国で商取引の決済に手形を発行するのはかなり少なくなっている。 かつて約束手形や為替手形の用紙は町の文房具屋さんで売っていて、それを購入し自分で必要事項を書き込んでいた。 そのため取引口座がない銀行を支払場所にしたようなインチキな手形も横行し、銀行事務にも差し支えるようになった。 そこで昭和40年頃、全国銀行協会では、手形は全て銀行発行の用紙にするとの取り決めで現在の統一手形用紙となった。 また当座預金口座を持っている者にのみその用紙を販売することとした。 従って私が税理士を開業した時は既に統一手形制度になっていた。
しかし、未だ高度成長の余波がある頃で中小企業の資金需要は大きいものの、 金融機関から見れば信用力が今一つで、融資条件からはみ出る企業も多かった。 創業間もない私が関与していた多くはそのような企業であった。 それらの企業は金融機関から直接融資を受けられないと仲間を募り融通手形を発行し、 それを金融機関で割り引いて資金繰りに充てることをしていた。
手形割引も融資の一種であるが手形が担保となり通常の借入よりは金融機関も比較的緩いのだ。 期日には口座に入金して自分振り出しの手形をお互いに決済すれば問題は発生しない。 しかし一方が資金不足だと相手の手形決済もすることになり、元々資金が足りない企業なのだから極めて危険だ。 本来手形は商取引の決済の手段として発行するが、融通手形に商取引はなく、 単にお互いに同額の自分で降り出した手形を交換するだけである。 金融機関も融手か否かは判断するが、巧妙な手口となると二者間でなく、 三者や四者で交換しあってあたかも商取引の手形のように仮装する。
当時、そういう業者の中にボス的存在の人が当事務所関与先の取引先社長に居た。 そのボス社長は取引している企業に勤務している人を独立するように薦める。 未だ日本経済が元気な頃なので独立し、一生懸命働けば何とか企業経営ができた良き時代ではあった。 彼の薦めで独立した人が私の知っている二人が居た。 ある一人は当事務所の当初の関与先で機械販売会社の仙台営業所長であったが、 その会社の了解を得て営業所を独立の会社組織にして社長となった。 そのボスはその会社とすぐさま自社の資金繰りのため融手を始めた。 機械販売会社はその手形を割り引いて親会社から割安で現金仕入をすることが出来るメリットがある。 私は融手の危険性をその社長に伝えたがそのボス社長を信頼し、しかも現金仕入できるメリットがあるので耳を貸さない。 しかし段々融手の額が増えるので金融機関も不審を抱くようになった。 その頃機械販売会社からの紹介でボス社長の会社も当事務所が関与することになった。 どうもボス社長がそう頼み込んだようだった。 もう一人は、ボス社長がやはり取引のある工事会社の腕の良い職人さんを口説き、工事業者として独立開業させた。 これも後から考えれば融手に引き込む手段だったのだと思う。 この会社も当事務所が顧問をすることとなった。 そうして当事務所が関与する3社間の融手サークルとなった。 私はボス社長に融手を徐々に少なくしていくことを勧めたが、 ボス社長はそんなことを言っても銀行が貸してくれないし手形さえあれば割り引いてくれるのでやむを得ないんだと言う。 日本銀行が金融緩和をしないので我々自身が信用創造するんだなどと宣(のたま)う。 さらにボス社長はそれでも足りなくなり、今度は取引しているある製造会社も巻き込んで4社間融手グループを作った。 この製造会社も顧問して欲しいと頼まれた。
日本の高度成長が終わり、一転不況となった途端先ず、ボス会社が破綻した。 残り3社は何とか連鎖倒産を防ごうと必死になった。 しかし、次に資金需要が大きい機械販売会社が破産申立をした。 工事会社も当然連鎖倒産してしまう。 機械販売会社社長からあれほど一緒に頑張ろうと言われていた工事会社の一本気な職人社長は、 自分に無断で破産申立をしたその社長に騙されたと怒り、 会社に乗り込みその社長を刃物で傷を負わせてしまい、警察に逮捕されてしまった。 本人からの希望で留置先の警察署に元旦に面会に行ったこともあるが担当の警察官曰く、 「本人がしたことは悪いが話を聞くとこっちが被害者だね」と。 結果有罪となったが、気の毒に思った私の依頼で書いた被害社長の嘆願書で執行猶予はついた。 その中でも比較的業績が良かった製造会社は3社の債務を自社で負い何とか経営していたが1年半後やはり資金繰りが詰まってしまい破綻してしまった。
これらグルーブの会社は地元の特定の金融機関を利用していたので、一時期その金融機関から当事務所は著しく信用を失うこととなった。 会計事務所が融手を勧めていたのでは?と言うことである。 全くの濡れ衣だが、注意しないとこういう羽目に陥ることもあるとの教訓となった。 製造会社が破綻した時はすっからかんになり、弁護士を依頼する費用もない。 やむなく関与税理士の私が、債権者から依頼されて整理をした。 その会社社長には実弟が居て専務ではあったもののそれまで経営には全くタッチさせられていなかった。 しかし債権者からその専務に第二会社を作って製造会社の業務を継続し、 そこで我々に仕事を回して欲しいと懇願された。 債権者も同様に経営が厳しく、何とか製造会社を立ち直らせて自分たちに仕事を回して貰いたいとの背に腹を代えられない選択であった。 またそこは組合団地でその会社が無くなってしまうとその債務を残りの組合員で負担することとなり、組合員会社からの要望でもあった。
幸い、その実弟は兄であった社長よりも堅実で営業能力もあり、第二会社は順調に業績を伸ばした。 しかし、旧債務もかなり引受けたので負担は重く、稼げども資金繰りは楽にならなかった。 それでも仕事はドンドン入ってきて人員が足りず、刃傷沙汰に及んだ職人社長を気の毒に思っていたこともありちょくちょく仕事を手伝って貰っていたが、結局本採用にした。 その職人社長はもともと真面目な人間なので、職の無かった自分に声を掛けてくれた恩義に報い頑張ったことで、そのうち役員に抜擢された。 当時、役員に対する大型生命保険が発売され始めていたが、社長以下役員全員が一人当り○億円の生命保険に取引先からの義理で加入することとなった。 ほどなく職人社長だったその役員がガンになりあっけなく死んでしまった。 会社は、未だ役員になって1年も経たないが、○千万円の死亡退職金を遺族に支払った。 それでも会社にはかなりの金額が残り、その保険金の残額で借入金等債務の殆どは、精算することが出来た。 私は、これは不遇の時に拾って貰ったことに対する元職人社長の会社への恩返しではないのかなと思った。 この会社はほぼ無借金状態を続けて現在も健在である。